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新庄の織物をひもとく【第三回 新庄の織物の評価はいかに?:明治期の新庄綾織の栄光と限界】

戊辰戦争後、士族授産として復興した新庄の機業は、どのような評価を受けていたのでしょうか。


前回も触れたように、明治期に開催された内国勧業博覧会では、新庄から多数の織物が出品されています。

特に明治36年の第五回内国博覧会では、新庄の亀綾織が「龜甲を極めて細く織り出せしものにて、頗る精巧なり」と高く評価されました。新庄織物組合(*1)や土肥匡氏、金田甲橘氏をはじめとする新庄の機業家たちも、褒賞や三等賞を受賞しています。また、特徴としては、比較的軽い織物であったようです。

さらに、明治十年代の明治天皇の東北御巡幸の際には、新庄の反物が34反買い上げられたというエピソードもあります。

一方で、明治31年に行われた岩手の共進会では「新庄地方の出品物は品質整斉で価格も安価だが、きわめて優でも欠でもない。ただし、その綾形普通にして陳腐の者多し」と、厳しい評価が下されています。シカゴ博覧会にも織物出品の記録がありますが、新庄の織物に限らず、山形県全体の織物が「光彩のない特性故に観客の注意を惹かなかった」と記録されています。

このように評価には揺れがありましたが、新庄の織物は国内の競進会への出品や天皇巡幸時の御買上げがあるほど優れており、一定の評価を得ていたことは確かです。


また明治17年の山形新聞では、共進会列品場の概況として「各郡諸織物陳列中、最上郡は最も品多にして、多くは新庄旧藩士族よりの出品なり。其織物は新庄絹、新庄保多織、新庄斜子等」と記録されており、新庄ではたくさんの種類の織物が生産されており、必死の努力が伝わります。


しかし、産業としての発展を考えると、課題も多く存在しました。

第五回内国博覧会の評価には「新庄ハ養蠶製絲機織精練ニ至ル迄皆自ラ之レヲ爲スノ慣習ナルカ故ニ大機業家ナク出ス所ノモノ亦軽目的物多ク」と記されており、新庄の産業が自家生産に依存していたため、大規模な機業家が育たなかったことが指摘されています。これが、産業の分業化を妨げる「古来の慣習」によるものだとも考えられます。

当時の新庄では、織物業の担い手は旧藩士関係の人々が中心で、沼田・小田島の両村に集中していました。周囲の村々の質の高い繭や生糸が生産を支えていましたが、取引は個人間で行われ、生産組合や前期資本主義的な動きは見られませんでした。この明治10年代の新庄における閉鎖的な結びつきは、旧藩士が伝統的な家内工業を維持しようとする意識によるもので、先進地域に学び技術革新を進めようとする戸長中心の新興者との対立がありました。


その後、明治19年には「新庄織物組合」が設立され、明治20年頃からは新庄の資産家らの土地を担保に借金をするなどして勧業政策が推し進められました。「新庄織物幷絹布練白改良事業」として、講師の招へい、海外志向のハンカチ生産、機道具・職場の貸与などの施策も行われます。明治30年代には、内国博覧会に向け最上郡の予算に勧業補助費が計上されたり、出品者に記念品の杯を贈呈するなどもしています。

新庄の織物は、その技術力と伝統で高く評価されながらも、産業としては地域の特性や伝統に阻まれ、十分に発展しきれなかった面があります。

明治前期には山形県全体で絹織物が盛んに生産されており、明治20年代初めは景気が上向きの時代で織物業界もその波に乗っていました。このころ県内の織物のうち69%が絹織物でしたが、うち86%が米沢を中心とする南置賜の生産で、最上郡が占める割合は大きくはありません。米沢や鶴岡では早期に分業化・機械化が進んだ一方、新庄では大正時代になってようやく電力仕掛けの織機が導入されたのです。

このように、家内工業中心の生産で問屋も育たず、機械化や企業化のための中心人物や投資もなく、さらには収入が良く手軽な下宿業への転換などの要因もあり、機業は衰退の一途をたどりました。

郷土史家の嶺(常葉)金太郎氏も「領民の無自覚無関心消極性の故」新庄の産業発展が遅れたことを指摘し、「経済反応が鈍い」と厳しく評価しています。(また、蚕糸業でも進展が遅れ、生糸の需要が落ちている中で蚕糸試験場を設けて昭和期に入っても改良が試みられていた点からもその性質がうかがえます。)

新庄の織物産業は、確かに一定の成功を収めたものの、より大きな成功を得るためには、時代の流れに合わせた柔軟な対応が求められていたのかもしれません。

もちろんそれでもなお、その独自の風土と伝統が生み出した織物は、さまざまな思いで復元され、今もなお歴史ある新庄土着の産業として受け継がれています



*1 「新庄織物組合」について:明治19年に発足。おそらく最上郡内(金沢・松坂町・稲舟村・金山は確実)の機織をする者が組合に所属しており,地区ごとの総代人を招集して委員会を行っていた。明治21年から同22年に,桐生の織師・森山芳右衛門を新庄に招き,下仲町の織物伝習所で織物改良指導を受けたか。森山父子の頌功碑に記名あり。明治期の内国勧業博覧会(第三回・第四回)・シカゴ閣竜世界博覧会(明治26年)に羽二重や織物の出品履歴あり。明治26年,「新庄織物組合事務所」から佐藤敏勉氏が「大日本織物協会」へ入会している。明治33年までは活動の記録がある。北条巻蔵氏の『職務の道中』においても,その活動の内容が書き残されている。織物組合の議案には、「織物問屋設置」や、機業の改良拡張のために「工場幷に一般機物家に対し諸般の便宜を得せしむる事」とし、契約事項等が定められている。
 
参考資料・その他の評価について
  • 『新庄市史(1994)』、旧『新庄市史(1981)』

  • 『第五回内国勧業博覧会重要物産案内(明治36年)』

  • 『第五回内国勧業博覧会審査報告 第6部 巻之3』 

  • 『府県聯合共進会審査復命書 明治31年5月刊』

  • 『最上地域史 第4号』、小山義雄、「明治十年代における最上地域の養蚕、製糸業の実態」

織物業は沼田・小田島の両村に集中しており,競進会への出品や天皇巡幸の際御買上がある程に優れていたもので,これは在方一円の優れた繭,生糸に支えられていた。それも個人対個人の取引関係であり先進地でみられるような問題,生産組合のような資本主義経済の前期的活動は見られず,ブロック的な閉鎖的な結びつきであった。さらに,「旧来の伝統を引き継ぎ,養蚕製糸織物まで一貫した手織操作による伝統的家内工業方式を踏襲しようとする旧藩士関係の人々と,先進地域に学び,洋式器械を導入し,指導者を招いて,技術革新に迫ろうとした積極果敢な(県・郡からの命を受けた戸長中心の)新興者があやをなして当地域の殖産を興業させようとしていた」時代であった。
  • 『染織新報 (135)』第五回内国勧業博覧会

山形県:同県の重もなる出品は米澤織長井紬、鶴岡の羽二重、山形の紋羽二重、新庄の白綾織庄内の絹綿交織なるが就中最も進歩の著しく見ゆるは米澤織なり……新庄の白綾織の如きに至ては古来の慣習あるが故に其発達甚だ面白からず上の山白綾織と絲織とは或いは将来嘱望するに足るべきか
  • 『(31)中渡村 荒木家近代文書(三)荒木伊左衛門』

第96項 明治28年春 京都全国農事蚕糸大会に出品人として出席。山形県出品で目立つものは新庄白織物とりんご、輸出用の織物を増やし市場へ出したいとも書かれている。

※写真は新庄市デジタルアーカイブより

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